
日蓮正宗
筑波山
本證寺
令和八年五月度 御報恩御講

本日拝読の『秋元御書』は「器の四失」について仰せです。
器にも色々なものがあります。磨かれたきれいな器もあれば、割れたり、欠けていたり、ヒビが入っていたりして使うことができないものもあります。また割れていなくても汚れていたり、ふたが開かなかったりなど器として使えないようなものもあります。
そのような色々な器の状態を私達の信心に譬えたものが「覆・漏・汙・雑」の四失です。
先ほども説明がありましたけれど、再度申し上げますと、「覆」とは、ふたに覆われて閉まっている状態で、心を閉ざして話を聞こうとしない状態のことです。主には未だ信心をしていない未入信の方のことといえます。
「漏」とは、器から水が漏れる意味で、周りの悪縁や誹謗中傷にあって信心が疎かになり薄れてしまうことをいいます。
「汙」とは、器自体が汚れているため、その中身まで汚れてしまうことをいい、せっかく清浄な信心をしているのに、自分勝手な考え、我見や慢心によって汚してしまい、功徳を失ってしまうことをいいます。
「雑」は混ざるという意味で、正しい教えに、他の間違った教えを混ぜてしまうことをいいます。御本尊様を信じていながら、他宗のものに手を合わせたりして謗法与同をしてしまうことをいいます。
大聖人様の正しい信心をしている私達ですが、この四失を戒めなければなりません。
大聖人様は、『日厳尼御前御返事』に、
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず」
と仰せられています。
御本尊の功徳は絶対であっても、私達の信心が弱かったり、先ほどの四失のある信心をしていたのでは何事も叶わないのであります。
『三大秘法稟承事』には、
「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」
と仰せのように、自行化他にわたる信心、自分だけという信心ではなく、他の人もこの御本尊様のもとに導いていく化他行、すなわち折伏をしていくことが大事であり、この自行化他の信心に励むところに、私達の願いも叶えられていくのであります。
御法主上人猊下は、
「疑惑を断じて、清浄な心で御本尊様を信じ敬い、「無疑曰信」の信心を貫きとおすところ、必ず成仏を遂げることができる」
と御指南です。
器の四失に自分の信心が当てはまっていないかを今一度見つめ直し、清らかな信心で日々お題目を唱え、そして化他行である折伏を行じて縁のある人をこの御本尊様のもとに導き、自他共に幸せになっていくことができるよう精進して参りましょう。