
日蓮正宗
筑波山
本證寺
令和七年七月度 御報恩御講

■強調・確認■
大聖人様が弘通された、文底の題目は、十界三千の依報・正報、色心の二法等の一切を具足した、真理であり智慧であり、法体である。と拝していくこと。
題目を受持し唱えていくならば、悪心を善心に、迷いを悟りへと転じていき、今生において必ず一生成仏の境涯を得られると勉強した。
自分の心を磨き、更なる自行の信心を確立していかなければ、申し訳ないことであり、今一度自分の信行を見直してみよう。実践あるのみである。
題目に縁できる理由は、過去世からの宿縁深厚(守護国家論153)なる故である。すなわち、順縁の機となる我々に限ってと言うことである。過去久遠から大聖人様と師弟の関係にあったという宿縁と、更に師と共に末法に生まれ合わせて、久遠元初の大法を弘通する使命によって、我々は御題目を唱えさせて戴いている。
題目の意義は、道理の解らない末法の一切衆生のために、仏様は大慈悲心を起こして、妙法の五字を珠としてつつみ、衆生に与えて下さった。つまり、迷いも悟りも一体であり、衆生と仏も一体である。その因果倶時の真理は、三世を貫く真理であるという意が妙法蓮華経であり、これに南無する、すなわち帰命・帰依するという意味が、題目の意義である。
一体不二であるが故に、妙法の受持と信行によって、迷いの衆生である我々は、その身そのままの姿で成仏の境涯を得ることが出来る。信行具足の唱題である。
唱題の功徳を感じることは、非常に大事なことである。唱題することにより、消滅できない罪障はなく、祈りも成就していくのである。我々末法の凡夫が、そのままの姿・形・位等において、実際に成仏できることを説いている。
大聖人様の御当体である、戒壇の大御本尊様を信じ奉り、唱題を重ねていくならば、大聖人様に具わる仏の体と仏の用を、自然に我が身に体現していくことができると明かされている。修行を重ねた一切の功徳と、一切の善根が具わっているのであるから、無疑曰信の信心で、常に功徳を感じられる心を磨いていこう。
唱題の心構えとして心がけたいことは、他宗謗法の念慮を絶していくこと。我慢や計我等の十四誹謗の心をなくして、唱題に心を込めていくことを教えられている。せっかく唱題に励んでも、罪障を作っていけば功徳はない。僧俗がお互いを誹り合うことなどは、仏法上大きな罪を作っていくことをよく知り、私心無く御題目を唱えていくという心構えが極めて重要である。
心を一つにして、自分も唱題行に努めると共に、他の人にも折伏をして正しい題目を唱えるよう勧めていくこと、すなわち折伏行に励んでいく心がけが大事である。 唱題の悦びを生活上に体現していこう。唱題は、我々の煩悩を菩提に、生死の苦しみを涅槃の悦びに、凡夫を仏に、穢土を仏国土に転じて下さるのである。大歓喜の中の大歓喜であると仰せである。
日々勤行唱題を積み重ねて、使命と自覚を認識し、己の心を磨いて悦びをいかに感じられるか。自分自身との戦いである。勉強したことを頭だけで理解しようとせず、実践あるのみと心得て、折伏行に精進していこう。
正法正義を受持する人は、たとえ何も解らなくても、この仏法のほかに成仏の道はないと確信し、他は一切邪義であるということを腹に入れた上で、御題目を唱えるところに、真の成仏の功徳が生ずると確信していこう。確信を持った上で信心修行するところに、おのずから縁に従って正しい折伏修行ということができていけるようになることを勉強した。
暑い中ではあるが、信心のために汗をかいていこう。