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令和七年三月度 御報恩御講

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■強調・確認■

 末法において、法華経を修行する僧俗が留意していかなければならないこととして「十四誹謗」を犯さない点をあげ、僧侶として信徒として、心がけていくべき事などを諭された御法門である。
 末法の僧俗が、夫々に正法を受持し仏道修行に励み、折伏弘教に勤めていく中で、十四誹謗をお互いに犯さないこと、不惜身命の折伏を行じていくこと、正法を持つ者がお互いに相手を仏の如くに敬い合っていく信行が大切であること等、基本的かつ重要な御金言と拝していくべきである。
 一、大聖人様の、一人の信徒に寄せられる深い御慈悲を拝すること。
 一、原則としての平等を示されている。一切衆生に仏性があること、原則として平等ということである。
 『法華経』は、女人成仏・悪人成仏・二乗成仏が明かされ、一切衆生の成仏という大原則が明らかにされた。成仏も原則として平等なのである。
 ただし、この平等には「この経の心に背かない」という条件があって、自ずと差が生ずることを勉強した。
 末法の衆生は、生命が濁り機根が劣っている。五濁悪世の衆生であるからこそ、その衆生を救うために、最勝最尊の大法が、御本仏宗祖日蓮大聖人様によって建立されたのである。
 大聖人様と同じ功徳の御題目を唱えることによって、御本仏の大慈大悲に浴して、即身成仏の大願を果たすことが出来ると確信すべきである。
 その為には、拝読の御文にも戒められている様に「法華経の心に背かない」で、仏道修行に精進していくことが肝要である。
 御本仏は、縁ある衆生に対して「一つの大きな因縁」によって御出現になり、究竟の法である「法華経」を説かれ、あらゆる衆生の成仏を解き明かされるところに眼目がある。これが「法華経の心」すなわち「仏の心」ということである。
 一切衆生成仏のための仏種を断ずる行為が「正法誹謗・謗法」という行為である。自らの仏種を断ずるのみならず、他の衆生の仏種をも断ずることが「仏の心に背く」こととなるのであり、それ故に謗法の罪は、世間法の罪よりもはるかに重いと知るべきである。(十四種類あると勉強した)
 我々一人ひとりが特に注意いなければならないのが、第一番目の「憍慢(きょうまん)」である。信心歴や教学力が進んでいくと、自分は勝れてきていると「おごりたかぶり」を生ずるものであり、それが人間というものである。自分自身の誉れや誇りは大事にしていいが、自己に対する過信や執着は全く別物である。
 自分の「我」に対する過信や執着が慢心に繋がり、不信や怠けに繋がってしまうと注意するべきである。謙虚に己を見つめ、境涯を高めさせて戴こうと講員同士が信行を磨き合っていくことが「僧俗和合・異体同心」となり、広布への大きな前進に繋がると確信して戴きたい。

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