
日蓮正宗
筑波山
本證寺
令和七年二月度 御報恩御講

■強調・確認■
末法に出現する御本仏が、一人の人間として生まれ、世間に向かって法を説き、その振る舞いによって、太陽や月のように一切衆生の苦悩の闇を除くと、勉強した。
その人は「世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し」(法華経425)と経文にある通り、汚泥のような世間の中にあっても、清らかな蓮華の如く、けっして汚れに染まることがない、と説かれている。
大聖人様は御自ら「自分こそ濁悪の世にあって、日月のように衆生の闇を照らし、蓮華のように清らかに法華経を説く者である」(四条金吾女房殿御書464)と示されている。
まさしく「日蓮」との御名乗りは、御本仏のお名前であると確信し拝することができるのが、我々法華講員のみであります。
「大聖人」と尊称申し上げることを勉強したが、他門の日蓮宗などでは「日蓮聖人」「日蓮大菩薩」等の呼称を用いているが、これらの行為は大聖人様の御事を、
過去に聖人と言われた人と同列とし、単なる菩薩におとしめる、大謗法行為であると知るべきであります。
月の光である釈尊の仏法は、法華経が説かれた八年間にわたって闇を照らし人々を救ったが、これに対して日の光明、つまり大聖人様の仏法は、末法万年に渡って闇を照らし続け、一切衆生を救いきられるのであります。
末法は、謗法の輩が充満している。大聖人様の仏法は、謗法の人達でも毒鼓の縁を結んで救済される。
我々は、広大深遠な功徳と力用を具えられた、下種の御本仏様が末法に御出現あそばされるのであり、その尊い意義と功徳を、大聖人様が御自ら示された事を深く拝信し、末法の一切衆生を救って下さるお方は「宗祖日蓮大聖人」様以外にはおられないことを確信し、信心修行に励み、充実していくことが肝要であります。
我々は誰しも、自らの宿業の果報を受けなければなりませんが、ひとたび大聖人様の仏法を受持し信行に励むことを怠らなければ、必ず自らの宿業を転じ、一生成仏の境涯を開くことが出来るのであります。
素直に正直に真面目に、日々の信行に励み、大功徳を確信し、縁ある方々にも下種を心がけ、活動充実を決意していきましょう。