
日蓮正宗
筑波山
本證寺
令和七年五月度 御報恩御講

■強調・確認■
本抄の趣旨は、大聖人様御自らの体験を通して「法華経の行者には必ず大難が競い起こってくる」ことを御教示され、更に「大難がなければ法華経の行者ではない」とまで断言されている。我々に、益々の信行倍増を勧められ、仏の使いとして折伏を行じ、妙法の大船に乗って成仏を目指していくことを促されていると拝信しよう。
「大難の功徳」難を乗り越えるには、勇気と意思と努力が必要である。しかし乗り越えた先には、輝かしい人生が待っている。苦難や困難を乗り越える行為には、後々の境涯を大きく変え、開かれていくという道筋があることをよく知るべきである。 難が起こることによって、無始以来の自らの一切の罪障を、今世で軽く小さく表し、消滅させていくことが出来るのである。(転重軽受)
難が大きければ大きいほど功徳も又大きい。後々の境涯が大きく変わり、良い方向に大きく開いていくことが出来る。(難即功徳)
①大きな難が来ても、いよいよ強盛な信行によって乗り越えたときには、願い事が叶うと教えられている。つまり、大難を乗り越えることにより、大小の所願が満足する功徳があるとの意味。
②今生で、法華弘通のために大難に遭うが、それは仏果を得ることが出来る勝れた果報であり、喜ぶべきことであると御教示。つまり、正法の護持と弘通の為に大難が競い起こってきても、強盛な信心と行体によって乗り切ることで、成仏という最高の仏果を得ることが出来るとの意味。我々は確信を持って、喜んで難を乗り越える気概が大事である。
③難を受けている今の場所・境涯・住居が、そのまま仏国土になるように心得て、諸々の難を乗り越えていけるように、努力精進することが大切であると教えられている。(娑婆即寂光)娑婆世界で起こる様々な問題は、すべて仏国土での問題となるのであるから、解決できないはずはないとの意味。
大難が来たときこそ、我々は成仏の為の大きな善因であると捉え、いよいよ信行強盛に乗り越えていく覚悟と使命が大事である。
「如来の使い」が難を受ける理由
第一に、法華経が仏の真実究竟の正法であり、仏の随自意の教えである故。
第二に、唯一の正法の修行によって、自らの罪障を転重軽受し消滅していく故。 第三に、地涌の菩薩の眷属として、難信難解の大法を弘通していく故。
末法に生まれ合わせて、法華経の一句でも人に説く人は、僧であれ俗であれ、男であれ女であれ、如来の使いであると勉強した。
因縁あって、大聖人様の三大秘法を受持し、南無妙法蓮華経と御題目を唱え、妙法を弘通する者は、地涌の菩薩の眷属である。
地涌の菩薩には、地涌の菩薩としての使命がある。それは、末法の娑婆世界における「妙法護持と弘通」であり、自らに課せられた使命と確信しよう。
娑婆世界に、深く大きな因縁がある故に、生まれ合わせた我々は、娑婆の世界の隅々に、一文一句なりとも語っていく責務がある。
末法において、御本仏大聖人様と、大聖人様が説き出された寿量文底の大法に巡り会うことがいかに難時であるか。
地涌の菩薩の眷属として、我が身の福徳と宿縁深厚なることを拝信するとき、一人ひとりが使命と自覚を果たすべく、折伏行に奮い立たなければならない。「なんとしてもお手伝いを・必ず成就を・ともに幸せになる」との強い祈りが大事。
功徳は、御本尊様への絶対信・随順・供養・讃嘆などによって現れ、罰は、御本尊への不信・誹謗・怨嫉・慢心などによって現れることをよく知っていくこと。
信心していない世間の人々が、不信や誹謗により罰を被るより恐ろしいのが、同志の者同士の十四誹謗である。
大聖人様の仰せの通り、自行化他の信行が実践できている人であっても、同じ法華講員や僧侶に対して、自分の考えだけを押しつけたり、怒りをあらわにしたり、不満を顔に出したりする。又信心のことのみならず、世間のことや日常の様々なことについても恨みや憎しみを持つ人がいるが、このような人は大聖人様の御本尊を信じて御題目を唱え折伏をしていたとしても功徳はなく、かえって罰を被ることになると、大聖人様は厳しく断言されている。
本人が自覚しようがしまいが、こういう人は、大聖人様が望まれている「広宣流布」への妨げをしているのであるから、その罪たるや誠に重く、自らの果報に従って罰を被るのである。もし、そのような人がいたならば、十四誹謗の怖さを教え、因縁の大切さ、因果の道理の厳しさを「真心」をもって教え、共に唱題して心を磨き、大いなる反省を促して「素直に正直」に、共々に境涯を高め合っていきたいものである。
「活動充実の年」支部折伏誓願目標の早期達成と実践、講中一結異体同心を固く決意し、明るく楽しく元気よく、何事があっても前進していこう。